死刑存廃論についてのラフな思考実験
先日こちらのpostをしたところ、ポツポツとRTされたので、ちょっと思い立って整理してみた。
基本的に数年前に個人的興味で調べた情報をベースに、幾つか気の付いた要素を更新してるだけなので、話題としてどうしても古さが否めない点はご容赦を。あと個人で趣味的に調べた事なんで、間違いなども結構あるかもしれず。
なお、この項は異論とか批判とか苦情が多数出そうなので、コメントつけられても敢えて反応しないので予めご容赦を。俺と違う意見とか幾らでもあっていいし、あくまで俺自身の検討内容整理とか、読んだ人にとって何か反面教師的にでも参考になればいいとかいった意味の記事ですコレは。
・資料1
・資料2
森達也氏「「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書いた人に訊きたい」
まず直近の死刑執行に際して出て来た上記2話題の消化から。
資料1。これヤヤコシイ系な話題に見えるけど整理して考えれば結構シンプルな話。適正手続きを軽視する風潮に対し苦言を呈した玉井先生に対し、小倉弁護士は、そのロジックだけを切り出せば(特にtwitterは個別postのみRTで拡散する傾向があるんで)政治犯のようなケースに悪用される事も容認する事になるってツッコミというか茶々というかを入れているだけ。
玉井センセイの発言自体はカッコ付きで「適正な法的手続きで合法に下された判決に対し」という暗黙の前提があるけど、小倉センセイはその前提表示が無い事を突っ込んでるんじゃないかな。
政治犯を字義通り狭義で捉えれば「どこの恐怖政治だよ」とか言いたくなるだろうが、多分それ以外のケース=(例えば)社会安定維持のために、誰か生贄的に犯人を仕立てて事件を落着させる必要がある、という冤罪ケースも含めて考えた方がいいと思うコレは。そうして見ると小倉センセイの茶々も一考に値する意見になる。
次に資料2に入る前に、政治や法律の世界のロジックと個々人の感情との不整合について私見をば。回りくどい説明は面倒だし読みづらいので、分かりやすい柄谷行人氏の所説を参考にして。
(1)政治や法律の世界のロジック
この世界では、一々個々人の個別事情に関わり合っていられない。だから「個々人性」的なモノを捨象してしまう。極端に言えば個々の人間が「人間としてのワンオブゼム」になっちゃう世界。
ここでは大所高所の視点で語る「一般」のロジックと、より具体的な事態にアプローチする「個別・具体」のロジックが対立軸になっていて、その中間のどこを適切なバランス分岐点にするか、「どこまで一般論で済ませて、どこから個別具体論で別途対処とするか」が肝要になる。総論と各論の関係とか、一般論と例外の関係というか。
(2)個々人性、すなわち「単独性」
上記の世界で捨象された「個々人性」はどーなんのよという話も当然ありうる。が、これは一般<>個別のロジックには馴染まない「単独性」というモノになってくる。
分かりづらいので具体例を挙げると、「私が子供の頃から飼っていたペット犬のコロ」はお金にも換えられないし別の犬で代替物とする事もできない、なぜならそのコロとの共有体験が私の人生の一部として血肉になっているから、という話。一般・個別のロジックで解消できない唯一性・代替不可性というか。「世界中が犯罪者だと指弾しても、私だけはこの子の無実を信じる。親というのはそういうものだ」というロジックも単独性から考えれば理解ができるのではないかと。で、極端な話、単独性ってのは世界の大半を失ってでも守りたいと思ったりする心情の領域だから、政治や法律にはちょっと馴染みが悪い。慰謝料とか損害賠償による弁済って思想は、そもそも「失われた単独性の回復はどうやったって不可能だから、一番通用力のあるお金でなんとか代替しましょう」って思考がベースにある筈だし。
じゃあ単独性が全く無力なのかというとそういうワケでもなく、世論を動かせば「一般」と「個別」の間のバランス分岐点を、より「個別」の側に動かす事ができる。例えば光市母子殺害事件のケース。アレが騒がれた結果、「加害者の人権ばかり大事にされて、被害者やその遺族の人権が蔑ろにされてないか」という話題が挙がって、世論が動いた。動いたから政治や法律のシステムがそれに反応して被害者参加制度などの歩み寄りが生じた。これは重要な一歩だと思う。
さて閑話休題、資料2。
森氏の言う「アンタら被害当事者じゃねーじゃん」的ツッコミは当然ながら森氏本人にも当てはまるわけで。だけど、感情論でロジックをスッ飛ばして政治・法律に影響与えて(森氏の挙げた例に従えば「厳罰化」とか)いいのかよというクールダウンを狙ったのであれば意味はある。上記の政治法律世界のロジックは、被害感情とかいった単独性には本来馴染まないんだから、(情を失った議論も空疎だけど)情に流されて議論がgdgdになったまま流されるのも回避すべきだと思う。
あと念のため補足しとくと、「海外はこうだから」ってのは一種の思考停止手法でないかと個人的に疑っているので、資料1・2とは別にその種の主張がある件については触れない。余所の状況は余所の状況で、あくまで参考例に留めてもっと自分たちの頭捻るべきじゃないかなと。
そこで、思うに。
政治とか法律の世界について語るのなら、ちゃんと「こういうケアすると社会的にこれだけのリスク(或いは負担が)生じる」というのを俎上に提示した上で「ここまではケアしよう」「ここから先は流石に無理だろ」とかいう判断を個々人が検討できるようにしなきゃアカンのではないかと。
処罰感情だけで刑罰を語るのもおかしいし、対抗言説として人権とか理想論ばかり主張しても「じゃあその理想論実現のために、どれだけの社会的負担が生じるのか」が分からなければ有効性に乏しくて感情論と同じ世界になっちゃう。そもそも理想論って公教育過程でみんな一度は耳にしている話なワケで。理想が大事なのはみんな本来分かってる筈。問題は理想と現実の擦り合わせをどこで行うかで、この妥協点探りが政治とかのキモなんでねーのかと。そうじゃないと民主主義の多数決って奴に意味が無い。
(勿論「理想論を切り捨てる」という判断にも社会コストは当然付随する)
……といった事を踏まえて。
・死刑の存在は望ましいのか?(理想論)
望ましいワケが無い。
冒頭に挙げた冤罪ケースとかを考えれば、冤罪被害者(犯罪加害者と目された人)の救済可能性はなるべく残しておきたいのは当然の話。
個人的に、例えば関心あって調べてみた東電OL事件とかもゴビンダ氏は犯行不可能だったんじゃね、と思うんだが、マスコミは被害者の生態を追っかけるのに夢中になって、碌にこの辺りが検証されないままズルズルと有罪認定されてしまった印象があり。中々再審は難しいとしても、ハナから死刑にしてその可能性をゼロにする積極的な必要性は無いと思う。
じゃあ死刑を撤廃してどういう刑にするか。よく見かけるのは欧米みたいに「懲役120年」とかいった刑期短縮しても出られそうにない長期刑を認めてしまうタイプの意見になるのかなあ。
ちなみに光市~の事件で被告人とかも誤解してたようだけど、凶悪事犯の長期懲役は実際にはそう簡単に出られない。少年法とか精神耗弱認定とかあった場合は別だけど。LB刑務所(LBは長期受刑の凶悪事犯用を指すみたい)の受刑者手記とか見てると、無期なら最短20年近くは仮釈にはかからない。仮釈対象として審査にかかっても、身元引受人が出なければどうなるか。結局刑期を満了するより無い。仮に事件から20年経って、本人の身内とかでもどれだけが存命しているのやら。存命していたとしても、加害者の身内としてバッシングを受け、ようやっと風化して安心できるようになった所で身元引き受けする気になれるかどうか。それは当人次第だとは思うが、あまり分のいい話じゃないと思う。犯罪者更生支援者に頼るという手もあるだろうけどね。でも、早くてザックリ20年後。社会も文化も大分変わってるから適応するのもかなり大変だと思うよ。
・ではその理想を追求した際に生じる社会的負担は?
ここで資料3と資料4をば。
資料3:死刑廃止すると受刑者一人当たり年間248万円の税金が使われる
資料4:日本の刑務所はパンク寸前 収容率115%! 民営化必要?
そう。資料3にあるように、受刑者一人に年間で投下される税金は250万弱になるワケだ。「グローバル経済で年収300万時代が来る!」とかひところ騒がれてたけど、こうして数字を見ると結構寒気がする。
年収300万の人間が例えば首になったり会社が潰れたりすれば、(生活に大きな不自由が生じるとはいえ)受刑者になれば年間250万近くの税金で国が養ってくれる、という発想が出て来ても不思議じゃない。「貧困層へのケアは間接的に社会の治安向上に繋がっている」という問題が数字で明示されたようなモノ。
……まぁそれ以前に、生活に困窮してるんなら生活保護申請を考えろよというツッコミもあるだろうけれど。申請すれば即保護を受けられるワケじゃないし。
実際「累犯障害者」とか読むと、障害があるために社会に受け入れて貰えず、受け入れてくれて安心できる環境(刑務所)に戻るために犯罪を繰り返すようなケースもあるワケで(読んだの大分前なんで記憶違いあったらゴメン)。
更に資料4。
既に日本の刑務所は、随分前から言われていた話だけど収容過剰状態になっている。犯罪者処遇としてまずこの過密状態は人権問題にならないのか、という話になる。
じゃあ刑務所を増やす? 葬祭センターを建築するとかいった話が持ち上がるだけでも「治安が悪化する」「地価が下がる」と言って住民運動で反対されたりする日本の社会情勢で、それ簡単にできる話なんだろか。
じゃあアメリカみたいに民営化する? それにも個人的には悲観的なんだ実は。「公」色彩の強い民営化の実例として、日本郵政の民営化後のトラブルの数々を忘れたワケじゃなかろうて。じゃあ「私」色彩の強い民営化はどうか。ワタミの介護産業がどれだけブラックだったかを考えると空恐ろしい。今の状況でも看守等の人手が足りなくて優良受刑者の手を借りたりしてる(上記「累犯障害者」等を参照)のに、誰がやるのソレ。
あと今の日本の刑法学で主流になっている(よね、確か)平野系の説だと、基本的に「本人そのものが悪いというより、生育環境等々の環境が悪いから、刑は社会教育目的を持っている」ロジックになるよね。それ民間に投げちゃっていいの?という疑問もある。
つまり死刑を撤廃するって事は、それだけの人数が受刑者として増えるって事だ。
収容施設のキャパはどうなるのか。受刑者に対する税金コストを納税者は容認出来るか。
感情論も分かるし、理想論は理想論として納得してるんだけど、こういう社会コストまで踏まえての話ってなかなか出て来ないよね、という事。多分不人情とか冷たい人間だとか思われたりして批判されるのが嫌なんだろうなとは思うんだけど。でも理想論って、ただ理想をくっちゃべってるよりも、こういうコストを踏まえた上で、それでもコストを理想の対価として受忍(コスト軽減を検討するなというワケじゃない)するという主張をする人の方が、個人的には志が高いんじゃないかなと思っていたり。
逆に理想論を強弁して「じゃあ死刑やめちゃいましょう」となって、いざ蓋を開けたら世論が「こんなコストなんて聞いてねーよ!」とかいう話になったら、結果としては実態がgdgdになった挙げ句、逆効果というか揺り戻しというか反動が出て危険なんじゃないかなと。
更に付言すると、死刑存置論は「こんな社会コストは負担したくないから、冤罪の救済可能性を潰してでも死刑を温存するという、別の社会コストを容認する」という話でもある。
で、暫定私見。
正直理想論の大切さは分かってる。分かってるんだけど、この現状でこの数字を見てるとどうにも分が悪いというか。有効な説得的な議論が思い浮かばない。
今世論自体が(少なくとも治安意識としては)保守傾向で被害者感情重視に傾いている上に、「官」の無駄遣い(何でも無駄遣い視するのはどうかと思うが)許すまじな風潮になっている。何よりワーキングプア層の生活費以上の税金を投下されているという実態にはかなりの反感が生じるだろうし。一般論としては刑務所とか増やせばいいじゃんと言えるけど、じゃあ具体的に家の近所にそれ作られちゃう人にそういう説得ができる自信は俺には無い。増やしたら増やしたで、上記「累犯障害者」で危惧されてるように、高齢者・障害者の介護施設を兼ねる事態にもなりかねないし。こういう人たちがある程度社会の中で安心して生活できる社会であれば、そういう危惧も杞憂で済むんだけど、どうも杞憂で済まない気がしてならない。
となると、現状の(法務大臣が敢えて早期執行をしない限り)何年も確定死刑囚が受刑を継続するという実態も、ある意味妥協点の一つとして考える事ができるなぁと。それはそれで、刑が確定したのに速やかに執行しないのは法に反しているという問題があるんだけど。あと受刑者当人にとって長期の宙ぶらりんは精神を患う要因になる事も問題として考慮しなきゃいけない。
あと触れてなかったけど、執行手段というのも法改正も含めて考えた方がいいんだろうけどね。こっちは情報というか調査不足なんでノータッチでここまで来たけれど。絞首刑というのが手段として適切かどうか、一種の残虐刑になっていないか。他にどんな手段がありうるのか、ベターな代替手段は無いのかとか。
あーしかし、多分「現状維持派の逃げのロジックだ」とか「原発容認派と同じ思考パタンじゃねーか」とか言われるんだろうな。自分でも客観視するとそういう印象は少なからずあるだけに。ただ、理想論の大切さは分かっているので、もうちょっと理想論側に「理想をただ掲げるだけってのはそろそろ一区切りつけない?」的な気分ではある。



